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住まいと暮らしの雑学探検隊
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東京臨海地域・水辺の暮らし探検 ~佃島・月島編 その1~
第 64 回
【東京臨海地域・水辺の暮らし探検】
~佃島・月島編 その1~
晴海トリトンスクエアから歩いて十数分の所に、「その独特の画風で江戸浮世絵界に旋風を巻き起こした謎の絵師、東州齋写楽終焉の地」と言われている場所や、「あのハリウッドスター、ブラピ (ブラット・ピット) がお忍びで来た町」があります。
写楽ゆかりの地というのは、醤油とみりんの香りが食欲をそそる【佃煮】の発祥の地「佃島」。
一方、ブラピがぶらっと訪れたのは、500mのほどの通り沿いに、70件以上もの【もんじゃ焼き】の店が並ぶ「月島」。もちろんブラピは、「もんじゃ焼き」を食べに訪れたのです。
高層マンションと江戸情緒残る町並みのコントラストが魅力的な「佃島」と、下町風情あふれる“もんじゃストリート”と新しいマンションが共存する「月島」を2回にわたって探検してみましょう。
まずは、なぜ「佃煮」や「もんじゃ」という「味」が生まれたのか? 「味」のルーツからスタートです!
●徳川家康と共に江戸にやってきた漁師の町・佃島
佃島のルーツで有名な説は、戦国時代にさかのぼります。織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の際、家康は信長の招待を受けて京都、堺の町を観光中でした。自分も危ないと感じた家康は、伊賀の忍者、服部半蔵に助けられながら、伊賀峠を超え水路を使い逃げ帰ったと言う伝説があります。この時、摂津国佃村 (現在の大阪市西淀川佃) の漁夫も手を貸したという説があるのです。
この恩に報いるために、家康は江戸開府の際に、佃村の漁夫33人を呼び寄せ、江戸近海で優先的に漁が出来る特権を与えたと言われています。その際、彼等の仕事場兼住まいとして与えられたのが、隅田川河口の三角州を埋め立ててつくった島でした。故郷の名にちなむと同時に、島のカタチが「田」の字に見えたのもあって、漁夫たちは「佃嶋」と命名したのです。昭和42年の住居表示実施により「島」の文字がなくなり「佃」と呼ばれるようになりましたが、「佃島」は紛れもなく、東京湾初の“人口島”だったわけです。
月島界隈
●舟で食べるおかずだった「佃煮」
幕府からお墨付きをもらった佃島の漁師達は、獲れた白魚などの魚を将軍はもとより、御三家に毎日のように献上したと言われています。その代わりに、それ以外の魚を江戸庶民に売り、生計を立てていました。江戸がどんどん大きな町になると、元々の江戸の漁師達と共に、日本橋に魚河岸もつくりました。これが、現在の築地市場の前身です。
それでも売れ残ったりする魚介類があります。これを塩で煮て、漁に出掛けた際に舟の中で食べる保存食としたのが【佃煮】の始まりです。関西から渡ってきた醤油作りの技が、野田近辺に普及すると、これまた漁師が得意とする舟という交通機関の優位性を使って取り入れ、あの甘辛い「佃煮」が完成されていった訳です。つまり、【佃煮】は「佃島」が漁師の町だった証でもあるわけです。
佃島の古地図
●明治に誕生した人工島、月島一号地
一方の「月島」は、明治25年の「東京湾澪浚 (みおさらい) 計画」に基づき、東京湾の浅瀬に溜まった土砂をさらって、佃島に続くように創られた島です。
当時の日本は開国からまだ間もない頃でしたので、欧米の列強に負けない国作りをしようと躍起でした。帝都東京近くに、海外の大型船が入港できる港を造るべきという声があがり、品川・芝浦近辺に港を造る計画が固まったのです。その前に、隅田川の水流を芝浦寄りに流れるようにするために、佃島の向側に土手か島を造ることになりました。それが「月島一号地」、現在の月島1丁目から4丁目でした。“島を築いた”から「築島」と名付けられそうになりましたが、目の前にある埋め立て地「築地」と似たような名前ではよくないということになり、ちょっと夢を込めて「月島」となったそうです。
ちなみに、その後に埋め立てられる月島2・3号地が現在の「勝どき」、4号地が「晴海」です。
●工場地帯として発展した月島の長屋と商店街
月島は、日清戦争や日露戦争、太平洋戦争を背景に、工場の町として発展しました。造船所の下請け工場や、各工場で働く人の長屋ができ、その人たちの生活を支える商店街として、現在のもんじゃストリートである「西仲通り」が出来たのです。
大正の頃は、夕刻になると西仲通りの商店の前にさらに露店が並び、様々な日用品が毎日のように売られていて賑わっていたと言います。この露店は縁日のそれではなく、商店街の人が出すお店で、しかも格安で地元の人に売っていたそうです。住民と商店街は持ちつ持たれつ。ここは東京の中心部からはちょっと離れた場所にある「島」。「佃島」も同様ですが、住民同士の結束意識は高く、今で言うコミュニティが完成されていたのです。
●コミュニケーションフード「もんじゃ焼き」
ところが、終戦と佃大橋の完成などで、商店街は一時さびれてしまいました。活気があるのは子ども達が遊ぶ「駄菓子屋」の軒先ぐらいのもの。そこで「もんじゃ焼き」が登場するのです。
当時の、東京下町の駄菓子屋のご馳走といえば「もんじゃ焼き」でした。とはいえ、駄菓子屋なので、小麦粉をといたものに、ネギ等をいれたシンプルなものぐらいでしたが、子ども達は、自分でつくるのが楽しく、「土手をつくるのがウマい」「あ! 決壊した!」など、コミュニケーションをとる遊びのひとつとして「もんじゃ焼き」をこよなく愛したのです。
これに対して、さらに大人でも楽しめるようにしたのが月島の面々でした。すぐ近くには全国の新鮮な魚が集まる築地市場があり、佃島から移り住んできた元漁師の人や築地の仲買も多く住んでいた月島です。子供の食べ物だった「もんじゃ焼き」に魚介類や様々な味を巧みに加え、現在のもんじゃ焼きまでに昇華させていった訳です。これが、月島=「もんじゃストリート」のルーツなのです。
「佃島」の【佃煮】も「月島」の【もんじゃ焼き】も、海に浮かぶ島だからこそ生まれた、「味」と言えるかもしれません。
次回の【東京臨海地域・水辺の暮らし探検】は、今も熱気あふれる佃島・月島の祭りと、江戸を残し続けた水辺の技についてお話します!
もんじゃ
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